「桑の実」
鈴木三重吉
岩波文庫

2012.6.5
ただ女に生まれて来たという事それ自身さえ憂う身寄りのない娘が、妻と別れた画家の家に住み込みで手伝いに来て、その家の人々との温かな交流も生まれるのだが、約束の時が過ぎ、惜しまれながらその家を去っていく話。その娘の細やかな心優しい気持ちが全編に滲み出てて、ほのぼのとした暖かい春の日差しの中に居るような世界が広がる。その世界が消え失せないようにそっとページも繰る感じ。心が荒んだ時、本箱から引き出してどのページでもいいから拡げたい、至福の時間が与えられる本。作者の言で、書き出す前に一日二日かかって集中した気分を(作者は、この時位、淋しいような、つかまへどころのないような、不安な気持ちをみる事はないと云っているのだが、多分その娘の気持ちになりきるのだろう)作らないと書けないと云う精魂込めて書き上げる姿勢、またペンで書くと、字がギスギスして気持上、制作ができず毛筆を使うと云う姿勢を知り、作家稼業の凄さを知る。 
「人間臨終図券」上巻・下巻
山田風太郎
徳間書店

2012.6.8
鈴ヶ森で火あぶりの刑で15歳で刑死した百屋お七に始まり、121歳で死んだ元世界最長寿の泉重千代さんまで、死亡年齢順に古今東西の著名な923人の死にざまに迫った異色の書。一人一人の人生が浮き彫りにされ人間生きて来たようにしか死ねないと痛感。因みに68歳の私の今の歳で亡くなった新田次郎の妻、藤原ていは「ただ冷たくなってゆく夫を、そうさせまいと必死になって毛布をかけてやっていた」とある。獄死した人、残酷な死を迎えた人、病死した人様々な死で教わる事の多い本。ただ惜しむらくは、この図鑑には79歳で没した山田風太郎は含まれていない。その79歳で亡くなった今東光へは「最後の死床において人を感服させるのは、平生においても必ずや相当な人物である。その裏返しもまた真ならん」との言葉をおくっている。
「ふがいない僕は空を見た」
窪美澄
新潮社

2012.6.11
2010年山本周五郎賞受賞作。性をテーマにした女性による女性のための新潮社R−18文学賞受賞の「ミクマリ」に新たに四篇が加えられた連作集。高校生にコスプレさせて自分の思い通りにセックスを楽しむ変態主婦の正にキワドイ官能小説のミクマリ。周五郎賞選考委員の選評では「貧乏や飢渇や病が正確に描き出されている」と評価が高いのだが、私には納得がいかない。やはり小説は、主人公に魅入られ、何時の間にやら主人公と共に飛び跳ねし、喜び悲しみを共にするほどでないと面白くも何ともない。その為には登場人物が見事に描き切られ、主人公が親友の一人に思えるほど好きになる事が要るか。この作品は、五連作で五人の主人公が登場するが誰一人として好きにはなれない。
「八日目の蝉」
角田光代
中央公論新社

2012.6.13
不倫相手の生後間もない赤ん坊を誘拐した女性の三年半に及ぶ逃亡劇が語られる前半と、誘拐された少女が四歳の時に親元に戻り、大学生にまで成長した姿、誘拐犯と同様に不倫して身ごもってしまう姿が語られる後半の二部構成。母性にあふれた誘拐犯である育ての母親と、母性に欠ける実の母親が対比して描かれる。最後に「母親になれなかった母と、どんな人を母と云うのか知らない私とで赤ん坊を育てよう。父親である事から常に逃げ出したかった父に、父親のように赤ん坊を可愛がってもらおう」と飛び出ていた実家に戻る決意をする。読者を鼓舞し、ひとつ元気を出して頑張ってみるかとの気にさせてくれる心温まる話。普段着の言葉が溶け入るように飛び込んでくる大変巧い綴り。 
「ものぐさ精神分析」
岸田秀
中公文庫

2012.6.16
巻末の解説で伊丹十三は「この本で自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、世界が俄かにくっきりと見えた」と述べている。読む人それぞれ、それぞれの霞がきっと晴れる思いがする本。「大変可愛がってくれた母は、自分の都合だけで私を支配し利用しようとしていたに過ぎないと思いが至った時、もしまだ母が生きていたら叩き殺したい程の憎悪が噴き出した」と筆者は述べているが、母と云う存在が万万一そうであったにしても、私は母の欺瞞の世界から抜け出そうとは思わない。私は不思議に高校時代の記憶がなく、何と惨めな哀れな青春であったのかと今の今迄悔いていたが、筆者の云う「記憶を欠いているのは記憶機能の問題でなく、抑圧を知らない時期だったからである」との事を知り、私は何と高校時代までも温かい母の胎盤に守られ、伊丹十三が云う「自分の力で走る事のないゼンマイ仕掛けの玩具の自動車」のように、幸せかどうかは別にして、そんな時を過ごしていたのだと教えられた。浅学な私にはこの本の大半を理解しえないのだが、時として読む度毎に何か考えるヒントを与えてくれる楽しみがある本。
「日本敵討ち異相」
長谷川伸
国書刊行会

2012.6.21
敵討ち著者草稿370件の中から異質な敵討ち十三篇が選ばれたもの。簡潔な研ぎ澄まされた綴りでの異相な仇討ちなのだが史実が語られるだけで、正に報道記事を読む如くで興味が続かない。巻末の解説者は耽読したとあるが、小生の場合5日で我慢我慢で読めだのが十三篇の内、七編だけ。半ばでギブアップ。
 
「謹訳源氏物語・三」
林望
祥伝社

2012.6.22
「須磨」(12帖)朧月夜との仲が発覚し、官位を剥奪され追いつめられた光源氏は後見する東宮に累が及ばないよう、自ら須磨へ退去し侘び住まいで淋しい日々を送る。 
「明石」故桐壺帝の夢のお告げで須磨を離れ明石に。源氏の子を身ごもる明石の君とあう。弘徽殿大后も病に倒れ、夢で桐壺帝に叱責され気弱になった朱雀帝はついに源氏の召還を決意。
「澪標」(みおつくし)光源氏は都に戻る。朱雀帝は、光源氏と藤壺中宮の不義の子に帝を譲位。源氏も内大臣として冷泉帝を補佐。一方、明石の方は将来后になるであろう姫君を無事出産。目出度し目出度しの展開なのだが面白くも可笑しくもなし。千年も読み続けられた理由が分からない。
「蓬生」源氏が須磨へ蟄居して後見を失った末摘花は困窮を極め荒れ果てた邸うちで貞淑至極に何年も孤閨を守っていた。たまたまその事を知った源氏は心打たれ末摘花を二条東院に引き取る。

何度も読む事を止めようと思ったが、谷崎が感心したと云うこの15帖蓬生迄はと思い何とか此処まで来たが、このつまらなさにここで読むのを止める事とした。展開の必然がなく話に入っていけない。 
「ジャッカルの日」
フレデリック・フォーサイス
角川文庫(篠原慎訳)

2012.6.26
ドゴール暗殺を請け負ったジャッカルと、暗殺を阻止しよとする英仏両国警察との正に執念のぶつかり合いのドキュメンタリー・スリラー。派手なドンパチ、殺し合いがある訳でもなし、また結末は誰にも分かっているのに、ジャッカルと云う暗号名しか分からない暗殺者の正体の仏司法警察による暴き方、政府高官宅に娼婦を入り込ませ警察捜査の進展を逐一入手し、タッチの差でジャッカルが仏司法警察の網から三度迄も逃れたり、巧みなジャッカルの三度の変装で窮地を脱したりする場面展開の巧みさにグイグイ引き込まれ、ハラハラドキドキのしどうし。正に巻を措く能わず。
「恐山」死者のいる場所
南直哉(みなみじきさい)
新潮新書

2012.6.28
著者は、26歳の時、サラリーマンをやめ曹洞宗大本山永平寺において出家得度し、約二十年の修業生活の後、05年から恐山菩提寺の院代(住職代理)。恐山は霊場として千二百年続き、年間二十万もの人が訪れ、もう一度会いたい、声が聞きたい、また会いに来るからねと云う死者への想いを預ける場所。また、恐山は「口寄せ」と呼ばれる降霊術を施す巫女「恐山のイタコ」でも有名。仲間の坊さんから、君は信仰がないと云われる南直哉の著。二度読んだが分かったような分からないような。この著者の他の本でも読んでみよう。気になった点を備忘録的に。
死後の世界はあるのかないのか。仏教での答えは「答えない」。それを仏教では「無記」と云う。死んだ後の事は、死ねばわかるだろうぐらいに考えればいい。 
魂とは、それは人が生きる意味と価値のこと。一にかかって人との縁で育てるもの。
人間が存在するためには決定的な意味を持つもの、それは死。
人が死ぬと、その人が愛したもののところへ行く。愛する事を知らない人は、死んでも行き場所がない。
死者は実在する。死んで焼かれて灰になって物理的に存在しなくなっても、ある人間の思考や行動に影響を与えると云う意味で、死者のリアリティが失われる事はない。死者と生者の差なんていうものはたいした事でない。死者を想う時、死者から生者に与えられるもの、それが生者にとって決定的に欠けているもの、つまり死。 
一番の供養は死者を思い出すこと。
正法眼蔵の一節「自己を習ふといふは自己を忘るることなり」。
近代社会と云うシステムは、処理できないもの、死と死者をとり残した。

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読書ノート

(本タイトルのフォント青色の書籍が、私の好きな「100冊の本」候補)

2012.6月