散策

両国橋

10.2.20 隅田川テラス 浅草まで

今回の予約は「おでん」一人前(¥3,500)と「おでんコース」(¥5,250)を注文。「おでん」はテーブルで特注の銅鍋で温めながら食べるので最後まで熱く食べれる。大変込んでいるので人気のお店なのだろうが、もう一度来ようとは思わない。

駒形橋

新大橋

清洲橋

→    隅田川大橋

久し振りの透き通る冬晴れ、散策を思い立つ。さて、何処へと思案。隅田川沿いが先ず浮かび、それなら浅草へとつながり、浅草なら予て行きたいと思っていた「おでん」の大多福さんを最終地点と決めた。食い意地の張っている小生の行動は矢張り「美味い物を」が付いて廻るのか。八丁堀から浅草までの隅田川に架かる10の橋をデジカメで撮りながら「大多福」までの8Km、12,652歩、腰が痛い痛いと云いながらついて来てくれた家内に感謝しながらの、浅草寺寄り道含め所要時間3時間半の散策。
隅田川は、北区の岩淵水門を最上流にして浜離宮庭園までの総延長23.5Kmの一級河川。

  大正四年創業のおでん「大多福」

台東区雷門と墨田区吾妻橋の間を浅草雷門の前を走る 「雷門通り」が「隅田川」を渡る橋。安永3年(1774)に架設された隅田川第五番目の江戸時代最後の橋。橋の名の由来は、左岸(向島方面)にある「吾嬬(あづま)神社」への道筋にあたることから、「吾嬬橋」と呼ばれており、これが「吾妻橋」に転じたという。現在の「吾妻橋」は昭和6年に架設された。

→   第10番目の「吾妻橋」

浅草寺仲見世

台東区蔵前と墨田区横網との間を「蔵前橋通り」が「隅田川」を渡る橋。蔵前の名は幕府の御米蔵がこの地にあった事に由来。震災復興事業の一環で、昭和3年完成新設された鋼製の「ヒンジアーチ橋」と呼ばれる構造で、水面すれすれから延びる鮮やかな黄色いアーチが印象的

厩(うまや)橋

台東区駒形と墨田区東駒形と間を「浅草通り」が「隅田川」を渡る橋。橋の名は、右岸(駒形側)橋詰にある「駒形堂」に由来している。現在の駒形橋は昭和2年架設。

神田川が隅田川に注ぐ所に架設された橋。当初は、幕府矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていた。現在の橋は昭和4年に架けられた。

中央区東日本橋と墨田区両国の間で「京葉道路」 が「隅田川」を渡る橋。明暦の大火で橋が無く、逃げられずに多数の死者が出た為、大火の後、寛文元年(1661)に「千住大橋」に次ぐ第ニ番目の橋として架橋された。武蔵と下総の二国を結ぶ橋である事からこう呼ばれた。現在の橋は昭和7年に完成。

昔の新大橋

中央区日本橋箱崎町と江東区佐賀の間を「人形町通り(水天宮通り)」が「隅田川」を渡る橋。上下に2段構造で、上段部分が首都高速道路 の高架橋、下段部分が「隅田川大橋」。昭和54年に架けられた。

中央区日本橋中洲 と江東区清澄の間を「清洲橋通り」が「隅田川」を渡る橋。震災復興事業として昭和3年完成。ドイツのライン河に架かるケルンの吊橋「ビンデンブルグ橋」をモデルとして設計された優美な女性的な橋。

中央区日本橋浜町と江東区新大橋の間を「新大橋通り」が「隅田川」を渡る橋。元禄6年、五代将軍綱吉により「千住大橋」、「両国橋」に次ぐ第三番目の橋として架けられた。今の橋は昭和51年 に架け替えられたものである。

日本橋川が隅田川に流入する河口部第一橋梁。橋の歴史は古く江戸中期、この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸揚げする所で、日本橋川に沿って白壁の酒屋が多く並んでいた。

中央区新川と江東区永代 の間を、「永代通り」が「隅田川」を渡る橋。赤穂四十七士が吉良邸 での討ち入りの後、「永代橋」を渡って亡君浅野匠頭の眠る芝高輪の「泉岳寺」に向ったという逸話が残る。現在の「永代橋」は、関東大震災後、大正15年に架設された。男性的な重量感に溢れ、アーチ形状が美しく夜には美しくライトアップされる。

わがマンションから数分の所にあり、中央区新川 と 佃を結ぶ橋梁。 創架は、平成 5年8月と新しい橋。東京湾から数えて勝鬨橋、佃大橋に続く三番目の橋。

(豊海橋)

五重塔

宝蔵門

台東区蔵前と墨田区本所の間を「春日通り」が「隅田川」を渡る橋。橋の名は「御厩の渡し」からきているが、「厩」とは「馬屋」のことである。この一帯にあった幕府の「御米蔵」米運搬のための馬の「厩」があったことから「御厩(おんまい)」の名称が使われるようになった。現在の厩橋は昭和4年架設。

Home Pageへ





浅草寺 雷門

(柳橋)

第一番目の「中央大橋」

永代橋

散策トップページへ

→     蔵前橋